わたしたちオーパーツ

 まあ、活躍しているから名前は知っている、くらいの認識だっただろう、お互い。
 最初に私たちが顔を合わせたのはパリの美術館だった。「破天荒」という言葉をそっくりそのまま擬人化したような人間、見た目も派手なら中身はもっと派手で、そして彼のつくる芸術品は、これまで見た「派手」の全てをかるく飛び超えていた。煌びやかで爛々とした色の融合はまさに爆発、そして、対比のようにすぐ下をなぞる色は儚く繊細で、私は大きな額縁の前で、唖然としたまま立ち尽くしていた。なんだこれは、と。私の知らない芸術だった。これまで必死で作り上げてきた自分の秘密基地を崩し、ひょいと飛び越えて行かれたような感じがした。悩んだ末、作者に会ってみたいと父に頼んで、やってきたのは私と同い年くらいの少年だった。
 応接室ではとんでもなく緊張したのを覚えている。出された紅茶と、少しの茶菓子に全く手がつけられない。驚いたのは、向こうが私のことを知っていて、開口一番にこんな挨拶をしてきたことだ。

 「緑川、そなちね先生ですよね! いつも展示会などで作品拝見させていただいております。今春から、同期としてXX学園に入学する下総健次郎と申しま……いや、同級生なんだからこんな堅苦しいのは止そう。同じ超高校級の仲間になれて、光栄に思うぞ!」

 握手した腕をぶんぶん振られる。今の私は多分、誰が見ても「ぽかん」という顔をしている。直感で認識する、私とはステージの違う人間だった。きっと世界の全てに虹色のフィルターでもかかっているんだろう。芸術家っていろんな人がいるもんだな、そんで、進学先一緒かよ。
 私は彼の言う通り、今春からXX学園への入学が決まっている。そこは、卒業すれば人生の成功が約束される……と言われているほどの高校で、最近の総理大臣や有能な政治家もこの学校の出身者が多い。入学条件はとにかく「超高校級」であること。スポーツだったり、勉学だったり、私たちの場合芸術だったり、高校生離れした才能を持つ人間が、政府からスカウトされる形式で入学できる。
 私は「超高校級の絵本作家」だ。今回も作品がお偉い方に認められ、パリまで出向いて表彰台にあがりにきた。目の前に座っている、彼もそうなのだろう。出会って五秒で敬語という概念をすっ飛ばした下総くんは、これは楽しくなるだろうな〜とひとり喜んでいる。

 「……ああ、そうだ、俺は『芸術家』の枠で入ったんだが、そなちねは何の肩書で入学したんだ? 『超高校級の幻想幾何学作家』……とかかな、なんかかっこいいな!」

 応接室中に響くような大声で、下総くんはその大きな瞳をキラキラさせている。対して私は、さてどこから突っ込んだらいいのやらと考えながら、口に運んだティーカップをお皿に置いた。

 「ただの絵本作家。あと、し、下の名前で呼ぶのやめてくんないかな。わたし、自分の名前嫌いで……」
 「どうしてだ? すごく良い名前じゃないか! 前にクラスの女子が、ピアノでラヴァルの『ソナチネ』を弾いてて、それにインスピレーションを受けた作品だって作ったことがあるし、印象派の絵画とも深く関係しているし……」
 「残念、わたしの由来は北野映画の『ソナチネ』なの。わたしのお母さんは確かにバイオリニストだけど、名前をつけたのは映画監督のお父さん」
 「あの映画も、フィルムで撮られた最期の記録と、沖縄の海と花火、完璧な映像美じゃないか! もっと自信を持つべきだぞ!」

 あの作品は爆発シーンも多いし、やっぱり芸術は爆発だよな! と笑う下総くん。こんな、ちゃんとした、芸術に携わる人間に名前を褒められたのってはじめてだ。今まではクラスの女子などに「かわいい名前じゃん」と言われることもあったが、それは半分馬鹿にしてるようなもので、アイカとかユカリとか、普通の名前のあの子たちが、急に今日からあなたの名前はそなちねですって言われたら嫌がるに違いない。
 超高校級って、こういうことなんだ。下総くんは当たり前のように筋立てて、理由も述べて、私の名前を褒めてくれたけど、私は自分が今話した音楽や映画について、彼は名前さえ知らないと思っていた。こんなにもポンポンと出てきた芸術品の名も、紅茶の中の砂糖より早く、あっけなく、溶けていく。呆然とする私を差し置いて、下総くんは興味深そうにティーカップの変な模様を見つめている。
 私は絞り出すように、ありがとう、物知りなのねと言った。下総くんは、こんなの芸術界の常識だろと楽しそうに笑っている。
 常識か、常識があんな芸術、生み出すもんなんだろうか。金色の額縁に囲まれた、一瞬で私の心臓を奪ったあの絵。
 あ、そうだ、私、この人に絵の感想と解釈を伝えたくて呼び出したんだ。いろんなインパクトのせいで忘れてたけど、あの芸術品は、パリの荘厳な美術館の中でも一際輝いていた。
 話を切り出す言葉を頭の中から探し始めた時、応接室にノックの音が響き、数秒後「失礼します」と声がした。音もなくドアを開けて部屋に入ってきた、格式の高いスーツを纏った初老の男性は、下総くんに向かって、授賞式のお時間です、と極めて簡素に告げる。もうそんな時間か、と時計を見る。私の迎えもそろそろ来るだろう。本当に伝えたいことを言いそびれてしまった。
 少しだけ服装を整えて、下総くんは立ち上がる。お話できてよかったよ、と私に向けて笑顔を浮かべ、そのままスーツの館員と一緒に部屋を出ていこうとして歩き出した時、私もテーブルに手をついて立ち上がっていた。

 「あっ、あの! きみになら、下の名前で呼ばれてもいいから! 褒めてくれてありがとう、ほんとに!」

 自分とは思えないくらいに上ずった声。超高校級の芸術家は、「おう、次は学校で会おうな」と私に手を振った。ガタン、と重い音を立ててドアが閉まる。何者なんだ、あのひとは。私は呆気にとられたままの頭を冷やすために、少しさめてしまった紅茶を喉に流し込み、またソファーに座り込んだ。


 晴れて入学し、私たちは当然のように美術特待コースに入れられた。クラスには錚々たる芸術、美術専門のメンツが集い、そこ同士でも国外の演奏会で一緒になったことがあるとか、招待されて作品を見に行ったことがあるとか、ほとんど全員知り合いみたいな状態で、「パリの美術館で少し会話しただけのわたしたち」は、周りから見たら完全に他人だった。彼の起こす奇天烈な行動とそれを楽しむクラスメイト、教室の隅の方で少ない友達と一緒に細々と筆を進める私、きっと卒業まで、もう話すこともないんだろうと思っていた。
 今度は、名前より作品の方を褒められたかったな、とか思ってたけど。


 「そなちね! そなちねが良いと思う。あいつは天才だ!」
 「そな……あ、ミドリさん? どうする、ミドリさん。健次郎に猛烈推薦されてるけど」

 クラスでは文化祭の看板制作に取り掛かっていた。各自の作品とは別に、ポスターやフライヤー、あと一番大きく飾られる看板を美術コースが担当することになっているので、私たちは大忙しだった。
 私を下の名前で呼ぶことを許したのは、一人しかいない。そして、この忌まわしい名前を、ロングホームルーム中の教室に向かって大声で言い放つような男にも一人しか心当たりがない。私は大きなため息をこらえる。念願かなって作品、褒められたけど、もっと静かにしてくれないかなあ。

 「確かに、健次郎と緑川さんがいつも技能評価一位と二位だもんな。ここ二人にまかせておけばなんとかなるんじゃね、俺たちは自分の作品で精一杯」
 「あ、じゃあ私ポスターやりたーい。楽そうだし!」

 かくして、私たちは文化祭の看板制作っていう面倒極まりない作業に取り掛かることになった。
 当の本人は、やっぱりクラスメイトの真ん中で笑っていた。


 時刻は21時を回っていたらしい。夢中で描いていたせいで、時間もわからなかったし、下校時刻をとっくに過ぎていることにも気付かなかった。
 作品は、思っていたより何倍も良い。ほぼ無計画でインクを撒き始めたにも関わらず、下総くんの持つキラキラした爆発みたいな色も、私の指がなぞる群青の世界も、綺麗に調和して、浮かんだり沈んだりする。この学園の歴代で見てもこんなに凄いものは、多分ない。

 「そなちね、なんか飲みたいものあるか?」
 「え、なんだろ……リプトン」
 「紅茶、好きなのか? パリの美術館で呼ばれた時も、そなちねは紅茶を飲んでいたなあ」

 衣服が汚れることも気にせず、私たちは第二美術室の床に横になる。ひんやりしていて気持ちいい。少し休むと、今までほぼノンストップで作品作りをしていた疲れがどっと押し寄せる。
 パリで挨拶したことを覚えていてくれたらしい。なんだか嬉しいのと申し訳ないのが半々だ、あんなにみんなに好かれて、文化祭の看板制作にも真っ先に名前が挙がる下総くんからしたら、ただの目立たない人間である私なんて、入学前には忘れられてると思っていたのだ。

 「パリで会ったとき、伝えてなかったことがあって。その、展示されてたやつ。初めて見たときから、もうずっと頭から離れないの。すごく、好きだなって思って……」
 「俺も緑川そなちね先生に呼ばれたって時は驚いたなあ、賞を貰ってるとか評価されてるとか抜きにして、作品が好きだったから。聞いてみたら同い年で同じ学校で、思ってたより普通の女の子で。それはそうと、入学してやっとわかったけど、そなちねって本名だったんだな」
 「なにそれ、わたし初めてちゃんと名前褒められて嬉しかったのに、結局馬鹿にされてんじゃん」
 「いや、違う。あんまり素敵だったから、てっきりペンネームかと……」

 珍しく詰まった言葉、深夜の学校の痛いくらいの沈黙。窓から入る真夏の夜風が、ぱらぱらと薄い画集のページを捲っていく。

 「……ありがとう……」
 「そうだ、俺のことも名前で呼んでくれないか? 他人行儀みたいじゃないか、いつまでも苗字で呼ばれると」
 「……えっと……健次郎くん……?」
 「それも長くて面倒だろう、呼び捨てにしてもらってかまわないぞ、友達だからな」

 絵の具だらけの美術室、窓から反射する虹色の光をぽかぽかと浴びながら、下総くんは照れたように言った。
 男子の名前なんて、呼び捨てで呼んだこともない。女の子の友達にだってちゃん付けだし、そもそも人と距離詰めるの、苦手なほうだし。完成に近い看板は壁に立てかけられ、静と動の完璧なコントラストがこの暗い部屋を見守っている。

 「あ、あのさ、わたし、人とそんなに仲良くならないから呼び捨てとかってまずしないんだよね……
 「それなら」

 俺が最初だ。ぱっちり開いた瞳と目が合った、第二美術室の床に寝っ転がったまま。夜空に映る無数の星をきらきらと宿らせて、それはまるで宇宙みたいで、私たちだけになった世界で呼吸をする。

 「……ずるいから、やめてよ」

 降り注ぐ星の光の中、爆発的に飛んできた赤い彗星にあっけなく撃ち抜かれる自分、ばかだなあとは思うけど、この両腕で顔を隠さないと今どんな表情してるかもわからない。きっと人に見せられたもんじゃない。
 あー、やだなあ、こういうのに耐性ないの、生まれてこの方暗い人生だったから、この人が無数に経験してること、わたしは全部初めてなんだよ。

 「どうした、そなちね! なにか嫌な気持ちにさせてしまったか? 相談があるなら乗り……」
 「ないない! 大丈夫、大丈夫だから。帰り支度しよ、この時間まで残ってんの、先生に見つかったらやばい」

 時間はゆっくり動きだす、私はぴょんと飛び起きて床に落ちている画材を手に取り、片付けをしようという意思表示のつもりで差し出した。足りない部分はまた明日やればいい、文化祭までは日にちがある。
 全然追いつかない頭の中、今も体内温度だけが上がり続けている。ずっとブランコでゆらゆらと揺れている感覚。何に酔ってるんだろう、ふらふらとするのにじっとしていられない。それを不思議そうに見ていた彼も、慌ただしく片付けを始めた私に合わせるのか合わせないのか、ぽいっと空の塗料をゴミ箱に投げ入れた。
 この五分くらいで急激に疲れた、帰ったら溜めてるアニメでも見ながらゆっくりしよう。美術室の手洗い場、冷たい水が両腕を静かにつたう。上がった体温が少しずつ冷えていく。それを「惜しい」と思ってしまうって、なんでだろう。本当は私、さっきのこと全部、嬉しかったくせに。あとひとつ、回路を繋げば、この気持ちがなんなのか、すとんと落ちる言葉が私に降りかかってくるはずなのに、まだ認めたくない頑固な自分が、違う違う、と否定してくる。そして次が、とどめの一撃。こんなに星が輝いて見える夜、廊下には幽霊も居ないだろう。月はここからじゃあうまく見えないけれど。絵画みたいに美しい空だ、そして窓枠の下にいるちっぽけな私たち。片付けはあらかた終わり、私が最後に鍵を持つ。

 「そなちね」

 こんな夜の廊下で、私の忌まわしい名前を呼ぶ男になんて、一人しか心当たりがない。鞄を持ったまま、なに、とできるだけそっけなく、体温上昇もがんがんの電圧も知られないように振り返る。目を合わせないように、と思ったけれど遅かった。

 「ほっぺにインク、つけっぱなしだぞ。綺麗な顔が台無しだ」

 本日何度目かの爆発。白いハンカチで拭われた頬が、また熱くなる。やめてよね、なんて言えなかった。布に付着した薄い赤と緑に目を落としながら、出た言葉は「自分で拭けるから大丈夫」で、これまた情けない、もう何回調子を狂わされただろうか。最初から、パリであの絵を見たときから、全部が始まっていたのかもしれない。
 外に出たら、ちゃんと綺麗な月が見えた。


 暗幕。スクリーンを、ゆっくり看板が上がっていく。私たちは「作者」として舞台袖の関係者スペースに立つことを許され、特に張り詰めた空気の中でその時を待っていた。
 とにかく超高校級、が集う学校だ。今までも奇作怪作はあっただろうし、これから先……たとえば来年とかには、もうみんな忘れてるかもしれない。でも、私たち二人はたぶんずっと、覚えているだろう。舞台の照明がぱっと光る。お披露目の瞬間、全校生徒が固唾を飲んでこの光景を見ている。
 数秒の沈黙の後、拍手と歓声がわあっと耳に飛び込んできた。これは称賛と受け取っていいんだよな、とふたりで目を見合わせる。今年は凄い、誰が描いたんだと声が聞こえる。スマートフォンもカメラも、シャッターを切る音が止まらず、それでもまだ拍手が続いている。大喝采だった。

 「これは……もしかして、大成功か? やったな、そなちね! お前を推薦して本当によかった!」
 「……それはこっちのセリフだよ、ありがとう。……健次郎」

 舞台袖で、ふたりが手を繋いでいることなんて、私たちだけが知っていればいい。
 拍手はいつまでも鳴り止まなかった。