日常と地球の額縁 2

 女学生しかいない学校を選びたいけれど、ゴミ捨て場でかつての友人らに罵声を浴びせられたことを思い出すと、女子も嫌、もうみんな嫌、となる。

 夏休みが始まる前に、私は学校を辞めました。

 小南の成績ならどこでも編入できるだろう、と先生は言った。幼馴染の中川椿は市内でもお嬢様学校と言われる女子校を勧めてきた。私はあの教室の中でいちばんキラキラした女の子でいたかったから、毎日体重を計り、ランニングをして、夜ご飯を抜いて、予習復習を欠かさずやっていたので、じゃあ晴れて卒業したらどうするの、と聞かれたら、何も決めてないです、としか言えなかった。周りには東京の大学に行くと言ってごまかしていた。元恋人も同じ目標を掲げていたから、なんとなく私も一緒。でも今となってはみんな知っている、あの人にお金なんてないことを。

 

 「ヤギリくんの家から多額の慰謝料もらってんだし、あるんじゃないの?」

 

 椿は私の部屋の絨毯に胡座をかき、コーラを飲みながら言っている。私はベッドに腰掛けて、もう枕元に無くなってしまった沢山のぬいぐるみたちのことを思い出す。

 

 「あんな大事件だもんね」

 「柚寿にはほんと、当事者意識っつーか、そういうの無いよな。お前のクラス、しかもお前が付き合ってたやつの話だぞ」

 

 しゅわしゅわした炭酸飲料をすっかり飲み忘れていて、持っていたペットボトルからぽたりと滴が落ちた。

 桜鳴塾大学附属高校男子生徒殺害未遂事件。今年の六月に起きたできごとで、ウィキペディアにも記事がある。私の通っていた高校なのだけれども、あの事件以来学校に行ったのは退学を申し込みに行った時だけなので、ひとごとみたいになるのも仕方ない。

 矢桐晴が、青山瑛太を殺そうとした。それだけだ。矢桐くんがインターネット配信で全世界にその事件全ての確執をバラした。綺麗なルックスを持ち雑誌の読者モデルまでこなし、成績はいつも特進科で学年十位圏内、元テニス部で運動もできれば、人当たりもとても良い。その甘ったるい声を今でも私はよく覚えている、というか忘れさせてくれない。品行方正な美青年、青山くんは家が生活保護を受けるほどの貧困家庭で、本当は高い服を買う金も、彼女や友達とデートする金も持っていなかった。それで、中学生の時から同じクラスだった医者と大学教授のご子息である矢桐くん、この子はまた青山くんとは対照的にあまり目立たない子で成績は真ん中くらい、いつも静かで大人しいと思いきや机の一角をずっと睨みつけていたり、私が話しかけると急に饒舌に喋りだすような、そんな生徒から、日頃から恐喝まがいのことをして金を巻き上げていた。

 その青山瑛太の彼女がこの私、小南柚寿。

 たくさんプレゼントを貰ったし、良いところに連れて行ってもらったし、この金の出所はどこだろう、と思ったときにはもう遅かった。騒動を知ってすぐに別れたけれど、矢桐くんは中学時代から青山瑛太殺害計画を組み、よそ者の私が入り込める余地もなかった。恋人が犯罪者。矢桐くんが普段、他の女子には優しく接する癖に、やたらと私にきつくあたってきた理由も今ならわかる。

 ふたりがどんな処分を下されたのかは、椿が教えてくれた。私だけ、自分から学校を離れたのだ。外は本格的に夏が始まったのか、蝉の鳴く声と、子供のはしゃぐ声が聞こえてくる。

 

 「男の人、今でも怖いから女子高にはするけど……」

 「なんだよそれ、じゃあ俺は」

 「椿は特別でしょ」

 「あはは、特別枠か。これ青山くんに報告しておこうかな」

 「それはやめてよ!」

 

 思わず立ち上がってしまった。炭酸飲料からまた、滴が落ちる。

 椿は青山瑛太の連絡先を知っている、定期的にメールをしているらしいし、私が自殺しようとした時もふたりで結託して止めに来てくれた。友達、というわけではないけど、小南の安全を確保するための仕事仲間……と言ったら変だろうか、そういった関係性であるらしい。別に私は、もう私の足で歩けるのに。

 それはそうと、自分がなぜこうも咄嗟に立ち上がり、椿を止めるというリアクションを取ったのかが自分でもわからない。私はわりと冷静な方だ、さっきの事件も当事者意識がないと言われてしまう始末だ。じゃあなんで、椿を特別だと言ったことを、青山瑛太に知られたくないのか。まるで浮気を隠しているみたいじゃないか。

 

 「……うそだよ、そんなムキになんなって。お前と青山くんはよく似てるよ、たしか、髪の毛が伸びた頃に迎えに……」

 「こなくていいの、もう関係のない人なんだから」

 

 ぱちぱちと頬を叩き、正気に戻れ、自分、と言い聞かせる。肩あたりで跳ねた髪は、一応美容室で整えてもらったものの、昔の綺麗なロングヘアーに戻るまではまだまだ時間がかかるだろう。

 海に行った。ふたりで駅のホームに座って、長い長い話をした。元恋人と、手を繋ぐこともないデート。電車に揺られながら、このままどこかへ逃げてしまおうか、という気持ちになったことを覚えている。

 その時の彼は、もう着飾るような真似はせず、ただ純粋に私を助けようとしていた。髪も服も靴もぼろぼろで、それは私も同じで、電車の窓に反射して映る自分たちがまるでこれから心中でもしに行く人のように見えた。そして、私が駅で降りて、駆け出して、海だ、と言ったとき、連れてきて良かった、と今までの作り物の笑顔なんかじゃない、本当の柔らかくて優しい微笑みを見せてくれたのだ。

 それで惚れ直したとかじゃないけれど、少なくともこんなふうに私に笑いかけてくれる人がいる以上、自分から死ぬなんてことはやめようと思った。

 そして、その後椿と連絡が繋がっていて、まあまあの近況報告が聞けることが少し嬉しかった。退院した、転校した、転校先でも名が知れていて嫌だ、という話を、椿を通して聞いた。私はそれを聞いて同情したり笑ったりしていたけれど、だんだん、あの人もちゃんと生きてるんだ、と思うようになった。

 

 「迎えに来るとか、来ないとか言ってたけど、どうでもいいの、生きてさえいればね」

 

 へー、そうなんだ、と椿は適当に返した。その三白眼がどこか楽しそうに私を見ていることに、またも今更気づいた。

 

 「前までの柚寿なら、他人が生きようが死のうがどうでもいい、って言いそうなのに」

 

 人って成長するもんなんだな、青山くんのおかげか。椿はコーラを飲み終えて、なぜここだけ行儀がいいのだろうか、ゴミは持ち帰るらしく、黒い大きなリュックサックにペットボトルを入れて、立ち上がった。

 

 「邪魔者はそろそろ帰るわ。これから、彼女と会う予定あるし」

 

 変わらずにこにこしたままの椿が、私に手を振っている。私もお幸せに、とか適当なことを言って手を振る、ドアが閉まる。数秒、お母さんが椿と話している声が下から聞こえてくる。

 

 「はー、ほんとあの人の名前出されると、調子狂う……」

 

 私は短くなった髪をぐしゃ、と握りしめて、ベッドに倒れ込んだ。