日常と地球の額縁 1

   小南柚寿が憎い。あいつに私は、全てを奪われた。

 夏休みが明けて登校したら、いつも通りの風景が広がっていた。地方政令都市の、どこにでもある女子高校。開いた窓、夏服のセーラー服。お土産を交換しあうクラスメイトたち。二年三組。私が扉を開く、その瞬間に空気が変わることを知っている、それがなによりも気持ちがいい。

 

 「みんな、おはよう!」

 

 笑顔を浮かべて、クラスでもいちばん、キラキラした子たちが集まるグループに挨拶をする。冬華、また可愛くなったね、とそのグループの中の一人に言われ、そんなことないよ、と謙遜する。そんなことないはずがない、私はこの夏休み、日焼けもしないように、体重も管理し、しっかりと美容に気を遣いながら、過ごしていたのだから。うちの、市内の女子高といえば名前が上がるのはまずここ。レベルが高いと評判で、他校の男子がたくさん文化祭に来るし、うちの高校の女子紹介してよ、と相談してくる人も多い。現に私だって、あの有名読者モデル渋谷翔の連絡先を持っている。

 可愛くいなきゃいけない。

 呪いみたい、と思う。この高校の名を背負うからには可愛くなけりゃ。逆にクラスの隅にいる、垢抜けない子たちは、じゃあなんでここにいるの? と問いたいくらいに。美容の専門学校でもないのに、私たちは日々お互いを出し抜かないように、女同士、なにか、見えないものと戦っている。それが容姿だったり成績だったり色々とあるけれど、なんだか恵まれたのかな、私は去年行われたミスコンで一年生にしてグランプリを受賞し、成績もクラスでいちばん。榎本冬華は、完璧だった。

 彼氏は、いない。作らないのだ。そのほうが、男の子にも女の子にも好かれるから。私はニコニコして、グループの中のちょっと間抜けな顔をした女の子の夏休みの思い出話を聞く、そして頷く、なんと初体験を終えたんだとか。私は処女だ、これもステータス。絶対に誰にも譲ってやんない。あんたみたいな、馬鹿とは違う、私は誰にも触れられない聖域でいたい。

 冬華は? なにかあったの? と、他の女の子が聞いてくる。そうそう、私も話すことを持ってきたんだわ。とっておきの、みんなをあっと言わせるような。

 

 「あのね、私……」

 

 その時、閉まっていた扉が開いた。差し込んだ光が眩しくて、教室の誰もが、そっちを向かざるを得なかった。そんな気がした。

 入ってきたのは担任。若い男性教師だ。担当は数学で、顔も整っているから、彼をアイドル視してきゃあきゃあ言っている女子も少なくはない。

 しかし、それを上回る、まるで作り物みたいな、「きれい」を引き連れていたから、霞んだ、全員の話す声が止まった。席に着け、という担任の言葉に、いつもは嫌々と各自の机に戻るクラスメイトたちが、この時だけ、本当にこの時だけ、素直に応じて席に座った。「いつもどおり」なはずが、おかしい。まるでこのみんなで一色、例えばピンクだとして、いちばんきれいなピンクはどれだろう、と染まっている中に、ひとつだけ黒色のインクを落とされたような、そんな雰囲気が教室を包み込んでいた。

 

 「転校生だ、今日からこのクラスに入ることになる」

 「……小南柚寿です」

 

 ぱっちり開いた大きな瞳、白い肌。肩の少し下まである綺麗な黒のストレートには、天使の輪が浮かんでいる。ピンクの薄い唇、そしてファッション雑誌のモデルのようなスタイル。「転校生」は、小さな声でそう言って、頭を下げた。

 全員が息を呑んだ。そして、勝てないと確信した。それは、私も。この教室にあるどのピンクよりも鮮やかで、お人形みたいで、そしてどこかアンニュイなオーラを纏った転校生、小南柚寿。いったいどこの学校から、と質問を飛ばすものも居ない、静まりかえった教室。担任はあまり詳しい説明をしなかった。指定された席に向かってゆっくりと歩いていく転校生。その道にだけ光が差し込んでいる気がして、廊下側の前から二番目に座る私も意図せずして目で追ってしまう。その一歩一歩が、私が去年文化祭で歩いたランウェイもどきの体育館、グランプリに選ばれた時よりも、輝かしく見えた。転校生は長い睫毛を伏せ、静かに椅子を引いて座った。その仕草さえしなやかで、上品で、このクラスの誰とも比べ物にならない、まさに別格。黙り込んだままの教室、三十三から一人増えたクラスで、何事もなかったかのような顔をしながら担任は簡単な挨拶と始業式の説明を始める。でも、私たちの興味は完全に転校生に向いていた。担任でさえ、なにか壊れ物を扱うような態度で小南を見るから。

 ハートしかない、その数字の大きさを競っている、私のクラスに、一枚ジョーカーが増えた。

 それだけなのに、どうしてこんなに、私は動揺してしまうのだろう。

 

 

 小南柚寿は、その日から私のポジションを全部きれいに更新していった。

 やけに美人な転校生が来たらしいと学校中で話題になり、夏休み明けのテストではクラスどころか学年で一位を取った。ほとんど誰とも会話をせず、ずっと外の方を眺めているだけなのに、彼女のファン的な人間ができはじめ、孤立しているのかしていないのかわからなかった。基本的にこちらから話しかけて、三つほど言葉が返ってくるのみの人間、まるで生きている感じがしないのだが、ハートの弱いほうのカード、いわばスクールカーストの低い、彼女に対して妬み嫉みなどを抱きさえできない女子たちは、プリントを渡してあげたり、校内を案内してあげたりしていた。そんな女子たちに囲まれていると肌の白さ綺麗さも、顔のつくりも、素晴らしく良いことがさらに際立って、日に日にこのクラスの可愛いくて勉強も運動もなんでもできる子、イコール小南という認識が出来上がっていった。前まではそこ、私だったのに。

 一度だけ会話をしたことがある。小南ほどの美人なら、次のミスコンに出てみたら? と声をかけたのだ。どうだ、先代グランプリ様からの直々の指名だぞ、という気持ちと、すでにもう声がかかっているかもしれない、小南には勝てない、という焦りが入り混じっていた。放課後、参考書をきれいに鞄に仕舞っている、途中の小南に話しかけた。

 

 「私、できればあんまり目立ちたくないの」

 

 転校生は静かに言った。

 あんなになんでも持っておいて、良くそんなことが言えたな、という言葉を飲み込んだ。どう見たって、映るために、目立つために生まれた女の子だ。映画でいえば主人公。私はその立場をおろされモブキャラになった。ああそうだった、今は無気力、無関心系の主人公が流行ってるんだっけ? どうでもいい、それならそいつが無気力ぶってるあいだに、正統派の主人公に私がなってやる。

 

 「ええ、もったいない、可愛いのに。目立つって得よ、私はこれでも去年グランプリとったんだけど、そのおかげで読者モデルの男の子と仲良くなったり……」

 

 読者モデル、という言葉を出した瞬間、小南の手が止まった。参考書を並べる細い指が、ぴたりと、漫画のように。

 そして、いままで一度も目を合わせてくれなかったのに、転校生ははじめてその顔を上げて、大きな瞳でちゃんと私を見つめた。

 

 「私は、そういうのが嫌なの。ごめんなさい」