日常と地球の額縁 5
次の日私はいつもよりも早く登校し、普段話すようなこともない真面目な生徒たちにも微笑んで挨拶をして、そして、小南の悪行を打ち明ける予定だった。
夏休み明け以降、学校に行くのが憂鬱になった。可愛いのも、勉強ができるのも、人に好かれるのも、全部小南。私と同じグループの友人たちは変わらず仲良くしてくれるけど、興味は明らかに小南の方に向いていた。
でも、そんな生活も今日で終わり。久しぶりに学校へ向かう足取りも軽い。人もまばらな廊下を抜けて、教室のドアを開けたら、なんと、私が一番乗りだった。誰もいない、がらんどうの教室を眺める。朝日が差し込んでいて、とてもきれい。そういえば、ドアの鍵が空いていたということは、私の先に登校したクラスメイトが居るんだろう。私のクラスは最初に登校した生徒が職員室に鍵を受け取りに行くシステムになっている。姿は見えないけれど、たぶんどこかに、誰かはいる。
そんなことはお構いなしに、私はスクールバックからたくさんの資料が入ったクリアファイルを取り出す。教室に誰もいない、ということは想定外だった。しかし、なんという幸運、私がいちいち噂を流さなくても、この黒板に「小南柚寿は犯罪者の恋人」と大きな文字で書いてしまえば、一発で全てが終わる。
筆跡で榎本冬華だとバレるとまずい。榎本冬華は、何も知らずに登校してきたフリをして、なにこれ、小南さんかわいそう……って悲しむフリをする役だから。これは、大富豪でいう革命。今から全てをひっくり返す。昨日戸羽から聞いた情報をもとにネット記事を漁ったら、あっさりと小南の名は出てきた。桜鳴塾高校男子生徒殺害未遂事件に関わっていた女が、このクラスのトップなんて、あってはならない。プリントアウトしてきた記事を、黒板にあらかじめセットされている磁石で貼り付けていく。順番に、黒板を埋め尽くすように。これを見た小南の反応が楽しみ、クラスの反応も楽しみ、そして今日からグランプリに舞い戻る榎本冬華の人生が楽しみ。
あらかた貼り終えただろうか、と思った時、静かな音を立てて、教室のドアが開かれた。まずい、と思ったけれど、これからのこのこと登校し、この黒板を見る小南のほうがもっとまずい。
「うそ……」
ドアの向こうに立っていたのは、小南柚寿だった。一番最初に登校していたのは、小南だったのだ。
黒板を見て、一瞬で全てを理解したんだろう。どさり、とスクールバックが床に落ちる。普段笑うことも怒ることもないくせに、初めて見る「絶望」の表情に、私は今度こそ勝ちを確信する。やってやった。渋谷翔と寝たことも、戸羽にいじめられてロングヘアだった髪の毛をちょん切られていたことも、全部わかってしまった。転校生は端正な顔を歪ませ、今にも座り込んでしまいそうなのを抑えて、壁に手をついてギリギリ立っている。私はそれがおかしくて、笑わずにはいられなかった。
「どうして、私は波風立たずに、静かに暮らしたかっただけなのに……」
「それが迷惑だって言ってるの。夏休み明けからあんたが、ずっと邪魔だったのよ」
小南は今度こそへなへなと座り込んで、力のない目で教卓にもたれかかった私を見上げている。平和に暮らしたかったなんて寝言。こっちは人生狂わされてるのよ、と私は、歌うように軽やかに、彼女に言う。その全てが大嫌いなあいつに、刃物みたいに突き刺さる。ああ楽しい、久しぶりに学校が、教室が楽しい。
「放っておいてよ、私のことなんか。目立ちたくないって、榎本さんにも言ったじゃない……」
あ、こいつ、私の名前知ってるんだ。なんにも興味ないような面してたから、クラスメイトなんて全員同じに見えてるんだろうと思ってたし、そういうところも嫌いだった。
発作を起こしたかのように小南は苦しげに息を吸って、吐く。過呼吸かなんかだろうか、今の小南は果てしなく惨めで弱くて、転校生としてはじめて紹介された、別格というものを一瞬にして見せられた瞬間からはかけ離れていた。
次のセリフを私が読み上げようとした時、後ろのドアが開いた。五人組の、あまり目立たない女子グループだった。私は興味のない人間の名前は覚えないので、彼女らの名前も知らない。しかし小南は、震える声で「佐藤さん」と懇願するかのように、入室してきた不細工な女子生徒を見上げた。
その佐藤さんという女子を筆頭に、女子がわらわらと黒板の前に集まりだす。この時間が登校のピークらしく、また女子生徒の塊がおはよう、と挨拶を交わしながら入ってきた。これで終わりだ。
「なにこれ……?」
佐藤さんは不思議そうに黒板の文字を目で追っている。他の女子も教卓を囲み、何かこそこそと話している。小南は両手で顔を覆い、今にもこの場で壊れてしまいそうだった。
「ねえ、びっくりだよね。まさか小南さんが、桜鳴塾の殺害未遂事件に関わってたなんて……」
悲しいフリをして、そういう顔を作って、私は佐藤さんに話しかける。彼女と話すのはこれが初めてだった。この子がどんな子なのか、私は全く知らないけれど、佐藤さんは首を傾げ、こう言った。
「たしかに有名なニュースだけど……小南さんは被害者でも加害者でもないんだし、あんまり関係なくない?」
「……は?」
目の前の不細工が怪訝な顔をして黒板を見ている。こいつはあの青山瑛太の彼女だぞ、加害者Yくんのお金で、それはそれは豪華なデートをして。小南が悪いわけがない。関係ないわけがない。佐藤がおかしいんだ、と言いかけたとき、教室のざわめきはさらに大きくなった。
「金を取ってるのが事実と知ってすぐ別れたって書いてあるし、小南さんは共犯じゃないよね」
「桜鳴塾から来たんだ、すごい、頭いいもんなあ。しかも、今はもうあれだけど……読者モデルと付き合ってたなんて」
「てかこれ貼り出したの誰? こんなこと、どうでもよくない? だから何? って感じだし」
何人かの生徒が、ボロボロの小南に駆け寄る。黒板に向かって飛び交う声があいつにも聞こえたらしい。自分はここにいてもいい、許された。それがどんなに彼女にとって救われたか、私は知らないけれど、堰を切ったように泣き出す小南を、いつのまにか登校してきた私のグループの女子まで取り囲んでいる。
わなわなと震える拳を、思いっきり黒板に叩きつける。ここは仲良しごっこをする場所じゃない。配られたカードの中で、どれが一番強いか、優れているかを争う場所だ。小南の人間らしい挙動を初めて見たクラスメイトたちはさらに同情したのか、黒板に向かってヤジを飛ばし続ける。もう私が犯人だって思われてもいい、正しいのは私だと、この教室にわからせてあげなくてはいけない。
「みんな大丈夫? 小南は被害者Yくんの金でデートしてたのよ? こんなのおかしい、なんでみんなあいつを庇うの?」
「だってそれは、青山瑛太が悪いじゃん。この記事によると、小南さんはYくんに、ささやかではあるけどお金返したみたいだし」
私のグループの女子が、黒板に貼られた記事の一つを指差す。あんたまで小南に味方するんだ。私はもう笑えてきてしまって、ようやく発作みたいな症状も収まり立ち上がる小南が、はじめて、クラスメイトたちに宝石みたいな笑顔を浮かべ、「ありがとう」と、顔を上げて視線を合わせながら言うのを睨んで見ていた。
「冬華、あんた最近おかしいよ。夏休み明けくらいから……ちょっと頭冷やしてきなよ」
諭すような口ぶりで、ひとりぼっちの私に言う。惨め、消えたい。自分がおかしいのは私が一番わかってる。小南のせいだ、また失敗してしまった。
大富豪は、もし革命が起きたとしても、ジョーカーが一番強いことには変わりないのだ。
「……学年主任が、榎本を呼んでこいって言ってた。たぶんこの黒板のこと誰かが告げ口したんじゃない? 早く行ったほういいよ、主任かなりキレてたから」
生徒たちは、黒板に貼られた記事を取り外す作業に取りかかり始めていた。その中に当事者の小南もいて、記事の中の比較的平和なエピソード、たとえば恋人とのことだとか、成績のことだとか、それを指摘されあたふたしたりため息をついたり、きちんとこの教室でいちばん鮮やかなピンクとして、馴染んでいた。