日常と地球の額縁 3

 単調な毎日。セーラー服の紐を結ぶ。前までは姿見の前に立ち、一ミリの乱れもないように、何十分もかけて支度をしていたけれど、もうその生活は終わった。朝ご飯を食べ終えて、歯磨きをしながら目を擦る。化粧は、今日は別にしなくてもいいや。

 今でも少し慣れないと思う時がある。女子しかいない学校と教室。上履きではしゃぐ生徒たちの声と、楽しそうな上履きの音が廊下に鳴る。ふあ、とあくびをした。単純作業を繰り返す、だけの日々。刺激が欲しい、なんてことは全くなく、むしろ今までの私の日々を思うと穏やかであるに越したことはない。なんとなく始まってなんとなく終わる、今日もそれ、多分人生ずっとそれ。人間だいたい、みんなそれ。ありふれた生活を、ありふれた人間たちと過ごしたい。私はもう二度と、あんな高いところに行かない、カーストの一番上に立っていたら突然命綱を離されて、真っ逆さまに落ちてしまったんだから。

 だから、私は転校先でもできるだけ無害、空気のような存在になろうとした。市内の女子高、椿が勧めてくれたいわゆるお嬢様学校で、静かに暮らそうと思った。いざクラスに入ってみると、転校生だということで最初は好奇の目を浴びせられたが、数日も経つとわざわざクラス外から見に来たり、休み時間毎に女子のグループが入れ替わって次々と話しかけてきたりすることはなくなった。少し戸惑ったのは、授業の内容がほとんど前の学校で今年の春あたりに終えてしまったものばかりで、退屈、そういえばあの頃は毎日予習とか復習とかを欠かさずしてたから、この辺りは全部わかるなあ、となったこと。転校していちばん最初に行われたテストで私は学年一位を取った。今までの高校では到底取れなかった順位、それもいちばんというのはさすがに気持ちが良くて、あの努力がこんなところで報われた気がして、嬉しかった。

 その辺りから、私はただの転校生ではなく、「小南柚寿」という人間として見られだした。

 ゴミ捨て場で暴行されたことを思い出すと足がすくんで、クラスの誰にも話しかけられなかった。逆に私に話しかけてくる人に対しても、ぎこちない応答しかできなかった。悪気はないのだけれど、どうしても素っ気ない感じがして、昔のまだ愛想が良かった自分を思い出して、嫌だった。そんな私にも一応、プリントを回してくれたり校内を案内してくれたりする子たちが居て、ありがたかったし、もう少し時間を経て私が彼女らに歩み寄ることができれば友人になれるだろう、そんな気がしていた。

 ミスコンに出ないか、と言われたのもこの頃だった。

 学級委員だと聞いた。榎本冬華と名乗ったその生徒は、くるんとカールした髪と、同じくきれいに上がった睫毛が特徴的で、前の学校で一緒だった友達の戸羽紅音をずっと可愛くした感じ。元の素材がいいというよりは、努力して手に入れたきれいな姿って思っていた。それは私も同じなので、クラスでいちばん最初に彼女の名前を覚えたし、きらきらしたグループで楽しそうに会話し、時には他の子のサポート役に回る姿を、かつての自分に重ね合わせていた。

 

 「小南さん、ミスコンに出てみない? 秋に、文化祭があるんだけど」

 

 パンフレットを渡される。ありがちなテーマの下に、ミスコンの概要が並んでいた、そして挟まれている応募用紙。

 榎本さんは先代グランプリだったらしい。一年にして、ミスコンに出られる勇気を素直に凄いと思った。女子しかいない学校、この沢山の女子の中で、いちばん優れている子を決めるというコンテストに、自薦か他薦かはわからないけど、胸を張って出られるなんて、と。私なら絶対にできない。体育館の前の方で、ランウェイ風に整えられたカーペットを歩く子たちに向かって、拍手を送るだけだ、横の子に「柚寿のほうが可愛くない?」って耳打ちされるような、そういうのを望んでいたし、そうなろうとしていた。率先して前に出ていくような真似は今も昔もできないのだ。

 

 「私、できればあんまり目立ちたくないの」

 

 愛想笑いを浮かべて言うが、私は榎本さんと目が合わせられなかった。ミスコン、グランプリ、そんな輝かしい経歴を持つ人との関わりは、以前の私ならまだしも、今はなるべく持ちたくない。ろくなことがないから。自分が目立っているのは知っていた、前まで榎本さんが持っていたのであろう「このクラスでいちばん優れている子」のポジションを、私が崩しかけていることも知っていた。だけど、私がもしここで榎本さんに、私はあの青山瑛太の元彼女よ、表舞台には立てないの、と告白したら、彼女は私に向けた敵意を引っ込めてくれるんだろうか。ミスコンに出ないか、と話しかけてきたのにも、何か裏があるんだろうとは察した。その目がいつも友達と笑っているときの笑顔と全然違うから。この人はたぶん、私をまた墜とそうとしているんだ。

 

 「ええ、もったいない、可愛いのに。目立つって得よ、私はこれでも去年グランプリとったんだけど、そのおかげで読者モデルの男の子と仲良くなったり」

 

 鞄の中の参考書を並べていた自分の手が止まった。

 榎本さんがグランプリなのは、知ってる。榎本さんが私と私の元恋人が起こした騒動について知ってるかもしれないのは、知らない。読者モデル、その言葉でけしかけてきてるのか、それとも何も悪気なく言ってるのか、榎本さんは、「ね、良いでしょ、目立つのも」とでも言いたげに私を見ている。その瞳と、はじめてきちんと目が合った。ミスコングランプリなだけあって整った顔立ちをしているが、心の奥底では何を思っているのか、全然わからない。私はあの事件のことを忘れ、新しい地でやり直そうと思っていたのに。自分の声が震えるのがわかる。もうあんな思いはしたくない、もう放っておいてほしい。

 

 「……私は、そういうのが嫌なの……」

 

 ごめんなさい、と気付けば口に出していた。榎本さんは、私がミスコンに興味がないどころか、嫌悪していることに安心したのか、そうなんだ、と笑った。

 残念、お友達に紹介しようと思ってたのに。そう言う榎本さんの笑顔には、残念どころか、安堵の色が透けて見えた。わかりやすいのか分かりづらいのか微妙な人だな、と思う。たとえばね、あの雑誌のモデルとか……と、いくつか挙げた雑誌の中に、元恋人、青山瑛太がモデルを務めていたものもあった。榎本さん、もしかして私のこと全部知ってるの、って言葉が喉元まで出かかっていた。その楽しそうに話す声が、本心からのものと思えないのがいちばん怖い。全部知っていた上で、私に話しかけていたとしたら、私のやり直し、更生劇場は一ヶ月も経たずに終わってしまうことになる。嫌だ、穏やかに過ごさせてくれ、という未練も虚しく、榎本さんはぱっとした笑顔で、こう言った。

 

 「あの有名モデル渋谷翔の連絡先だって、知ってるもん」