わたしたちオーパーツ

 まあ、活躍しているから名前は知っている、くらいの認識だっただろう、お互い。
 最初に私たちが顔を合わせたのはパリの美術館だった。「破天荒」という言葉をそっくりそのまま擬人化したような人間、見た目も派手なら中身はもっと派手で、そして彼のつくる芸術品は、これまで見た「派手」の全てをかるく飛び超えていた。煌びやかで爛々とした色の融合はまさに爆発、そして、対比のようにすぐ下をなぞる色は儚く繊細で、私は大きな額縁の前で、唖然としたまま立ち尽くしていた。なんだこれは、と。私の知らない芸術だった。これまで必死で作り上げてきた自分の秘密基地を崩し、ひょいと飛び越えて行かれたような感じがした。悩んだ末、作者に会ってみたいと父に頼んで、やってきたのは私と同い年くらいの少年だった。
 応接室ではとんでもなく緊張したのを覚えている。出された紅茶と、少しの茶菓子に全く手がつけられない。驚いたのは、向こうが私のことを知っていて、開口一番にこんな挨拶をしてきたことだ。

 「緑川、そなちね先生ですよね! いつも展示会などで作品拝見させていただいております。今春から、同期としてXX学園に入学する下総健次郎と申しま……いや、同級生なんだからこんな堅苦しいのは止そう。同じ超高校級の仲間になれて、光栄に思うぞ!」

 握手した腕をぶんぶん振られる。今の私は多分、誰が見ても「ぽかん」という顔をしている。直感で認識する、私とはステージの違う人間だった。きっと世界の全てに虹色のフィルターでもかかっているんだろう。芸術家っていろんな人がいるもんだな、そんで、進学先一緒かよ。
 私は彼の言う通り、今春からXX学園への入学が決まっている。そこは、卒業すれば人生の成功が約束される……と言われているほどの高校で、最近の総理大臣や有能な政治家もこの学校の出身者が多い。入学条件はとにかく「超高校級」であること。スポーツだったり、勉学だったり、私たちの場合芸術だったり、高校生離れした才能を持つ人間が、政府からスカウトされる形式で入学できる。
 私は「超高校級の絵本作家」だ。今回も作品がお偉い方に認められ、パリまで出向いて表彰台にあがりにきた。目の前に座っている、彼もそうなのだろう。出会って五秒で敬語という概念をすっ飛ばした下総くんは、これは楽しくなるだろうな〜とひとり喜んでいる。

 「……ああ、そうだ、俺は『芸術家』の枠で入ったんだが、そなちねは何の肩書で入学したんだ? 『超高校級の幻想幾何学作家』……とかかな、なんかかっこいいな!」

 応接室中に響くような大声で、下総くんはその大きな瞳をキラキラさせている。対して私は、さてどこから突っ込んだらいいのやらと考えながら、口に運んだティーカップをお皿に置いた。

 「ただの絵本作家。あと、し、下の名前で呼ぶのやめてくんないかな。わたし、自分の名前嫌いで……」
 「どうしてだ? すごく良い名前じゃないか! 前にクラスの女子が、ピアノでラヴァルの『ソナチネ』を弾いてて、それにインスピレーションを受けた作品だって作ったことがあるし、印象派の絵画とも深く関係しているし……」
 「残念、わたしの由来は北野映画の『ソナチネ』なの。わたしのお母さんは確かにバイオリニストだけど、名前をつけたのは映画監督のお父さん」
 「あの映画も、フィルムで撮られた最期の記録と、沖縄の海と花火、完璧な映像美じゃないか! もっと自信を持つべきだぞ!」

 あの作品は爆発シーンも多いし、やっぱり芸術は爆発だよな! と笑う下総くん。こんな、ちゃんとした、芸術に携わる人間に名前を褒められたのってはじめてだ。今まではクラスの女子などに「かわいい名前じゃん」と言われることもあったが、それは半分馬鹿にしてるようなもので、アイカとかユカリとか、普通の名前のあの子たちが、急に今日からあなたの名前はそなちねですって言われたら嫌がるに違いない。
 超高校級って、こういうことなんだ。下総くんは当たり前のように筋立てて、理由も述べて、私の名前を褒めてくれたけど、私は自分が今話した音楽や映画について、彼は名前さえ知らないと思っていた。こんなにもポンポンと出てきた芸術品の名も、紅茶の中の砂糖より早く、あっけなく、溶けていく。呆然とする私を差し置いて、下総くんは興味深そうにティーカップの変な模様を見つめている。
 私は絞り出すように、ありがとう、物知りなのねと言った。下総くんは、こんなの芸術界の常識だろと楽しそうに笑っている。
 常識か、常識があんな芸術、生み出すもんなんだろうか。金色の額縁に囲まれた、一瞬で私の心臓を奪ったあの絵。
 あ、そうだ、私、この人に絵の感想と解釈を伝えたくて呼び出したんだ。いろんなインパクトのせいで忘れてたけど、あの芸術品は、パリの荘厳な美術館の中でも一際輝いていた。
 話を切り出す言葉を頭の中から探し始めた時、応接室にノックの音が響き、数秒後「失礼します」と声がした。音もなくドアを開けて部屋に入ってきた、格式の高いスーツを纏った初老の男性は、下総くんに向かって、授賞式のお時間です、と極めて簡素に告げる。もうそんな時間か、と時計を見る。私の迎えもそろそろ来るだろう。本当に伝えたいことを言いそびれてしまった。
 少しだけ服装を整えて、下総くんは立ち上がる。お話できてよかったよ、と私に向けて笑顔を浮かべ、そのままスーツの館員と一緒に部屋を出ていこうとして歩き出した時、私もテーブルに手をついて立ち上がっていた。

 「あっ、あの! きみになら、下の名前で呼ばれてもいいから! 褒めてくれてありがとう、ほんとに!」

 自分とは思えないくらいに上ずった声。超高校級の芸術家は、「おう、次は学校で会おうな」と私に手を振った。ガタン、と重い音を立ててドアが閉まる。何者なんだ、あのひとは。私は呆気にとられたままの頭を冷やすために、少しさめてしまった紅茶を喉に流し込み、またソファーに座り込んだ。


 晴れて入学し、私たちは当然のように美術特待コースに入れられた。クラスには錚々たる芸術、美術専門のメンツが集い、そこ同士でも国外の演奏会で一緒になったことがあるとか、招待されて作品を見に行ったことがあるとか、ほとんど全員知り合いみたいな状態で、「パリの美術館で少し会話しただけのわたしたち」は、周りから見たら完全に他人だった。彼の起こす奇天烈な行動とそれを楽しむクラスメイト、教室の隅の方で少ない友達と一緒に細々と筆を進める私、きっと卒業まで、もう話すこともないんだろうと思っていた。
 今度は、名前より作品の方を褒められたかったな、とか思ってたけど。


 「そなちね! そなちねが良いと思う。あいつは天才だ!」
 「そな……あ、ミドリさん? どうする、ミドリさん。健次郎に猛烈推薦されてるけど」

 クラスでは文化祭の看板制作に取り掛かっていた。各自の作品とは別に、ポスターやフライヤー、あと一番大きく飾られる看板を美術コースが担当することになっているので、私たちは大忙しだった。
 私を下の名前で呼ぶことを許したのは、一人しかいない。そして、この忌まわしい名前を、ロングホームルーム中の教室に向かって大声で言い放つような男にも一人しか心当たりがない。私は大きなため息をこらえる。念願かなって作品、褒められたけど、もっと静かにしてくれないかなあ。

 「確かに、健次郎と緑川さんがいつも技能評価一位と二位だもんな。ここ二人にまかせておけばなんとかなるんじゃね、俺たちは自分の作品で精一杯」
 「あ、じゃあ私ポスターやりたーい。楽そうだし!」

 かくして、私たちは文化祭の看板制作っていう面倒極まりない作業に取り掛かることになった。
 当の本人は、やっぱりクラスメイトの真ん中で笑っていた。


 時刻は21時を回っていたらしい。夢中で描いていたせいで、時間もわからなかったし、下校時刻をとっくに過ぎていることにも気付かなかった。
 作品は、思っていたより何倍も良い。ほぼ無計画でインクを撒き始めたにも関わらず、下総くんの持つキラキラした爆発みたいな色も、私の指がなぞる群青の世界も、綺麗に調和して、浮かんだり沈んだりする。この学園の歴代で見てもこんなに凄いものは、多分ない。

 「そなちね、なんか飲みたいものあるか?」
 「え、なんだろ……リプトン」
 「紅茶、好きなのか? パリの美術館で呼ばれた時も、そなちねは紅茶を飲んでいたなあ」

 衣服が汚れることも気にせず、私たちは第二美術室の床に横になる。ひんやりしていて気持ちいい。少し休むと、今までほぼノンストップで作品作りをしていた疲れがどっと押し寄せる。
 パリで挨拶したことを覚えていてくれたらしい。なんだか嬉しいのと申し訳ないのが半々だ、あんなにみんなに好かれて、文化祭の看板制作にも真っ先に名前が挙がる下総くんからしたら、ただの目立たない人間である私なんて、入学前には忘れられてると思っていたのだ。

 「パリで会ったとき、伝えてなかったことがあって。その、展示されてたやつ。初めて見たときから、もうずっと頭から離れないの。すごく、好きだなって思って……」
 「俺も緑川そなちね先生に呼ばれたって時は驚いたなあ、賞を貰ってるとか評価されてるとか抜きにして、作品が好きだったから。聞いてみたら同い年で同じ学校で、思ってたより普通の女の子で。それはそうと、入学してやっとわかったけど、そなちねって本名だったんだな」
 「なにそれ、わたし初めてちゃんと名前褒められて嬉しかったのに、結局馬鹿にされてんじゃん」
 「いや、違う。あんまり素敵だったから、てっきりペンネームかと……」

 珍しく詰まった言葉、深夜の学校の痛いくらいの沈黙。窓から入る真夏の夜風が、ぱらぱらと薄い画集のページを捲っていく。

 「……ありがとう……」
 「そうだ、俺のことも名前で呼んでくれないか? 他人行儀みたいじゃないか、いつまでも苗字で呼ばれると」
 「……えっと……健次郎くん……?」
 「それも長くて面倒だろう、呼び捨てにしてもらってかまわないぞ、友達だからな」

 絵の具だらけの美術室、窓から反射する虹色の光をぽかぽかと浴びながら、下総くんは照れたように言った。
 男子の名前なんて、呼び捨てで呼んだこともない。女の子の友達にだってちゃん付けだし、そもそも人と距離詰めるの、苦手なほうだし。完成に近い看板は壁に立てかけられ、静と動の完璧なコントラストがこの暗い部屋を見守っている。

 「あ、あのさ、わたし、人とそんなに仲良くならないから呼び捨てとかってまずしないんだよね……
 「それなら」

 俺が最初だ。ぱっちり開いた瞳と目が合った、第二美術室の床に寝っ転がったまま。夜空に映る無数の星をきらきらと宿らせて、それはまるで宇宙みたいで、私たちだけになった世界で呼吸をする。

 「……ずるいから、やめてよ」

 降り注ぐ星の光の中、爆発的に飛んできた赤い彗星にあっけなく撃ち抜かれる自分、ばかだなあとは思うけど、この両腕で顔を隠さないと今どんな表情してるかもわからない。きっと人に見せられたもんじゃない。
 あー、やだなあ、こういうのに耐性ないの、生まれてこの方暗い人生だったから、この人が無数に経験してること、わたしは全部初めてなんだよ。

 「どうした、そなちね! なにか嫌な気持ちにさせてしまったか? 相談があるなら乗り……」
 「ないない! 大丈夫、大丈夫だから。帰り支度しよ、この時間まで残ってんの、先生に見つかったらやばい」

 時間はゆっくり動きだす、私はぴょんと飛び起きて床に落ちている画材を手に取り、片付けをしようという意思表示のつもりで差し出した。足りない部分はまた明日やればいい、文化祭までは日にちがある。
 全然追いつかない頭の中、今も体内温度だけが上がり続けている。ずっとブランコでゆらゆらと揺れている感覚。何に酔ってるんだろう、ふらふらとするのにじっとしていられない。それを不思議そうに見ていた彼も、慌ただしく片付けを始めた私に合わせるのか合わせないのか、ぽいっと空の塗料をゴミ箱に投げ入れた。
 この五分くらいで急激に疲れた、帰ったら溜めてるアニメでも見ながらゆっくりしよう。美術室の手洗い場、冷たい水が両腕を静かにつたう。上がった体温が少しずつ冷えていく。それを「惜しい」と思ってしまうって、なんでだろう。本当は私、さっきのこと全部、嬉しかったくせに。あとひとつ、回路を繋げば、この気持ちがなんなのか、すとんと落ちる言葉が私に降りかかってくるはずなのに、まだ認めたくない頑固な自分が、違う違う、と否定してくる。そして次が、とどめの一撃。こんなに星が輝いて見える夜、廊下には幽霊も居ないだろう。月はここからじゃあうまく見えないけれど。絵画みたいに美しい空だ、そして窓枠の下にいるちっぽけな私たち。片付けはあらかた終わり、私が最後に鍵を持つ。

 「そなちね」

 こんな夜の廊下で、私の忌まわしい名前を呼ぶ男になんて、一人しか心当たりがない。鞄を持ったまま、なに、とできるだけそっけなく、体温上昇もがんがんの電圧も知られないように振り返る。目を合わせないように、と思ったけれど遅かった。

 「ほっぺにインク、つけっぱなしだぞ。綺麗な顔が台無しだ」

 本日何度目かの爆発。白いハンカチで拭われた頬が、また熱くなる。やめてよね、なんて言えなかった。布に付着した薄い赤と緑に目を落としながら、出た言葉は「自分で拭けるから大丈夫」で、これまた情けない、もう何回調子を狂わされただろうか。最初から、パリであの絵を見たときから、全部が始まっていたのかもしれない。
 外に出たら、ちゃんと綺麗な月が見えた。


 暗幕。スクリーンを、ゆっくり看板が上がっていく。私たちは「作者」として舞台袖の関係者スペースに立つことを許され、特に張り詰めた空気の中でその時を待っていた。
 とにかく超高校級、が集う学校だ。今までも奇作怪作はあっただろうし、これから先……たとえば来年とかには、もうみんな忘れてるかもしれない。でも、私たち二人はたぶんずっと、覚えているだろう。舞台の照明がぱっと光る。お披露目の瞬間、全校生徒が固唾を飲んでこの光景を見ている。
 数秒の沈黙の後、拍手と歓声がわあっと耳に飛び込んできた。これは称賛と受け取っていいんだよな、とふたりで目を見合わせる。今年は凄い、誰が描いたんだと声が聞こえる。スマートフォンもカメラも、シャッターを切る音が止まらず、それでもまだ拍手が続いている。大喝采だった。

 「これは……もしかして、大成功か? やったな、そなちね! お前を推薦して本当によかった!」
 「……それはこっちのセリフだよ、ありがとう。……健次郎」

 舞台袖で、ふたりが手を繋いでいることなんて、私たちだけが知っていればいい。
 拍手はいつまでも鳴り止まなかった。

日常と地球の額縁 5

 次の日私はいつもよりも早く登校し、普段話すようなこともない真面目な生徒たちにも微笑んで挨拶をして、そして、小南の悪行を打ち明ける予定だった。

 夏休み明け以降、学校に行くのが憂鬱になった。可愛いのも、勉強ができるのも、人に好かれるのも、全部小南。私と同じグループの友人たちは変わらず仲良くしてくれるけど、興味は明らかに小南の方に向いていた。

 でも、そんな生活も今日で終わり。久しぶりに学校へ向かう足取りも軽い。人もまばらな廊下を抜けて、教室のドアを開けたら、なんと、私が一番乗りだった。誰もいない、がらんどうの教室を眺める。朝日が差し込んでいて、とてもきれい。そういえば、ドアの鍵が空いていたということは、私の先に登校したクラスメイトが居るんだろう。私のクラスは最初に登校した生徒が職員室に鍵を受け取りに行くシステムになっている。姿は見えないけれど、たぶんどこかに、誰かはいる。

 そんなことはお構いなしに、私はスクールバックからたくさんの資料が入ったクリアファイルを取り出す。教室に誰もいない、ということは想定外だった。しかし、なんという幸運、私がいちいち噂を流さなくても、この黒板に「小南柚寿は犯罪者の恋人」と大きな文字で書いてしまえば、一発で全てが終わる。

 筆跡で榎本冬華だとバレるとまずい。榎本冬華は、何も知らずに登校してきたフリをして、なにこれ、小南さんかわいそう……って悲しむフリをする役だから。これは、大富豪でいう革命。今から全てをひっくり返す。昨日戸羽から聞いた情報をもとにネット記事を漁ったら、あっさりと小南の名は出てきた。桜鳴塾高校男子生徒殺害未遂事件に関わっていた女が、このクラスのトップなんて、あってはならない。プリントアウトしてきた記事を、黒板にあらかじめセットされている磁石で貼り付けていく。順番に、黒板を埋め尽くすように。これを見た小南の反応が楽しみ、クラスの反応も楽しみ、そして今日からグランプリに舞い戻る榎本冬華の人生が楽しみ。

 あらかた貼り終えただろうか、と思った時、静かな音を立てて、教室のドアが開かれた。まずい、と思ったけれど、これからのこのこと登校し、この黒板を見る小南のほうがもっとまずい。

 

 「うそ……」

 

 ドアの向こうに立っていたのは、小南柚寿だった。一番最初に登校していたのは、小南だったのだ。

 黒板を見て、一瞬で全てを理解したんだろう。どさり、とスクールバックが床に落ちる。普段笑うことも怒ることもないくせに、初めて見る「絶望」の表情に、私は今度こそ勝ちを確信する。やってやった。渋谷翔と寝たことも、戸羽にいじめられてロングヘアだった髪の毛をちょん切られていたことも、全部わかってしまった。転校生は端正な顔を歪ませ、今にも座り込んでしまいそうなのを抑えて、壁に手をついてギリギリ立っている。私はそれがおかしくて、笑わずにはいられなかった。

 

 「どうして、私は波風立たずに、静かに暮らしたかっただけなのに……」

 「それが迷惑だって言ってるの。夏休み明けからあんたが、ずっと邪魔だったのよ」

 

 小南は今度こそへなへなと座り込んで、力のない目で教卓にもたれかかった私を見上げている。平和に暮らしたかったなんて寝言。こっちは人生狂わされてるのよ、と私は、歌うように軽やかに、彼女に言う。その全てが大嫌いなあいつに、刃物みたいに突き刺さる。ああ楽しい、久しぶりに学校が、教室が楽しい。

 

 「放っておいてよ、私のことなんか。目立ちたくないって、榎本さんにも言ったじゃない……」

 

 あ、こいつ、私の名前知ってるんだ。なんにも興味ないような面してたから、クラスメイトなんて全員同じに見えてるんだろうと思ってたし、そういうところも嫌いだった。

 発作を起こしたかのように小南は苦しげに息を吸って、吐く。過呼吸かなんかだろうか、今の小南は果てしなく惨めで弱くて、転校生としてはじめて紹介された、別格というものを一瞬にして見せられた瞬間からはかけ離れていた。

 次のセリフを私が読み上げようとした時、後ろのドアが開いた。五人組の、あまり目立たない女子グループだった。私は興味のない人間の名前は覚えないので、彼女らの名前も知らない。しかし小南は、震える声で「佐藤さん」と懇願するかのように、入室してきた不細工な女子生徒を見上げた。

 その佐藤さんという女子を筆頭に、女子がわらわらと黒板の前に集まりだす。この時間が登校のピークらしく、また女子生徒の塊がおはよう、と挨拶を交わしながら入ってきた。これで終わりだ。

 

 「なにこれ……?」

 

 佐藤さんは不思議そうに黒板の文字を目で追っている。他の女子も教卓を囲み、何かこそこそと話している。小南は両手で顔を覆い、今にもこの場で壊れてしまいそうだった。

 

 「ねえ、びっくりだよね。まさか小南さんが、桜鳴塾の殺害未遂事件に関わってたなんて……」

 

 悲しいフリをして、そういう顔を作って、私は佐藤さんに話しかける。彼女と話すのはこれが初めてだった。この子がどんな子なのか、私は全く知らないけれど、佐藤さんは首を傾げ、こう言った。

 

 「たしかに有名なニュースだけど……小南さんは被害者でも加害者でもないんだし、あんまり関係なくない?」

 「……は?」

 

 目の前の不細工が怪訝な顔をして黒板を見ている。こいつはあの青山瑛太の彼女だぞ、加害者Yくんのお金で、それはそれは豪華なデートをして。小南が悪いわけがない。関係ないわけがない。佐藤がおかしいんだ、と言いかけたとき、教室のざわめきはさらに大きくなった。

 

 「金を取ってるのが事実と知ってすぐ別れたって書いてあるし、小南さんは共犯じゃないよね」

 「桜鳴塾から来たんだ、すごい、頭いいもんなあ。しかも、今はもうあれだけど……読者モデルと付き合ってたなんて」

 「てかこれ貼り出したの誰? こんなこと、どうでもよくない? だから何? って感じだし」

 

 何人かの生徒が、ボロボロの小南に駆け寄る。黒板に向かって飛び交う声があいつにも聞こえたらしい。自分はここにいてもいい、許された。それがどんなに彼女にとって救われたか、私は知らないけれど、堰を切ったように泣き出す小南を、いつのまにか登校してきた私のグループの女子まで取り囲んでいる。

 わなわなと震える拳を、思いっきり黒板に叩きつける。ここは仲良しごっこをする場所じゃない。配られたカードの中で、どれが一番強いか、優れているかを争う場所だ。小南の人間らしい挙動を初めて見たクラスメイトたちはさらに同情したのか、黒板に向かってヤジを飛ばし続ける。もう私が犯人だって思われてもいい、正しいのは私だと、この教室にわからせてあげなくてはいけない。

 

 「みんな大丈夫? 小南は被害者Yくんの金でデートしてたのよ? こんなのおかしい、なんでみんなあいつを庇うの?」

 「だってそれは、青山瑛太が悪いじゃん。この記事によると、小南さんはYくんに、ささやかではあるけどお金返したみたいだし」

 

 私のグループの女子が、黒板に貼られた記事の一つを指差す。あんたまで小南に味方するんだ。私はもう笑えてきてしまって、ようやく発作みたいな症状も収まり立ち上がる小南が、はじめて、クラスメイトたちに宝石みたいな笑顔を浮かべ、「ありがとう」と、顔を上げて視線を合わせながら言うのを睨んで見ていた。

 

 「冬華、あんた最近おかしいよ。夏休み明けくらいから……ちょっと頭冷やしてきなよ」

 

 諭すような口ぶりで、ひとりぼっちの私に言う。惨め、消えたい。自分がおかしいのは私が一番わかってる。小南のせいだ、また失敗してしまった。

 大富豪は、もし革命が起きたとしても、ジョーカーが一番強いことには変わりないのだ。

 

 「……学年主任が、榎本を呼んでこいって言ってた。たぶんこの黒板のこと誰かが告げ口したんじゃない? 早く行ったほういいよ、主任かなりキレてたから」

 

 生徒たちは、黒板に貼られた記事を取り外す作業に取りかかり始めていた。その中に当事者の小南もいて、記事の中の比較的平和なエピソード、たとえば恋人とのことだとか、成績のことだとか、それを指摘されあたふたしたりため息をついたり、きちんとこの教室でいちばん鮮やかなピンクとして、馴染んでいた。

日常と地球の額縁 4

 「小南柚寿? 知り合いだけど……」

 

 渋谷翔は、喫茶店に飾ってある小さな置物に目を落とし、そう言った。

 私はわかっていた、小南ほどの美人なら他校にも存在は知れ渡っていると。そして、夏休み明けに急に市内から転校してきたということは、何か洒落にならない揉め事を起こしたのだと。知り合いの読者モデルである渋谷は情報通でもあり、この一帯の一連の出来事は把握している。私はなんとか約束を取り付け彼とふたりで喫茶店に行くことに成功したが、渋谷の方はあまり乗り気では無いらしく、小南の話をした途端に暗い顔をした。綺麗なグレーの瞳を、今度は何も無いところへとさまよわせる。

 

 「……少し調べたら、冬華ちゃんだってわかるだろ。柚寿ちゃんが、あの桜鳴塾高校男子生徒殺害未遂事件に関わってるってこと」

 「やっぱり……!」

 

 小南がどこから転校してきたのかは、教師からも本人からも語られなかった。しかし、女子の間では噂が広まっていた。小南と中学が同じ生徒がいて、その子によるとあいつは、この辺りでも一番か二番の進学校である桜鳴塾高校の、さらに特進科にかなり良い成績で進学し、その高校の制服を着て、これまた少女漫画の王子様みたいな男の子と一緒に通学やデートをしていた、らしい。

 なんだ、あいつ中学は私立じゃないのね、と私は密かに思った。小南と同じ中学、ということは学区が同じで家も近所。その子の言うことは真実だと見てもいいだろう。しかし、あの桜鳴塾に進学しておきながら、うちの女子校に転校してくるのはおかしい。うちの高校は由緒正しいお嬢様学校というだけで、偏差値自体はそれほど高くない。そして桜鳴塾といえば、六月に全国ニュースにもなったあの事件。生徒は両者とも特進クラスの二年生だったらしく、あの高校は選抜で一クラスしか特進の名を持たないので、つまり小南と同じクラスだったのだ。

 

 「そんなに冬華ちゃんに話すことは無いよ。俺はただ知ってるってくらい、きれいな子だったから名前を覚えてるだけって感じで」

 「あの事件と関わってるんでしょ、ねえ、教えてよ。私、あの子と友達になりたいんだけど、なかなか心を開いてくれないっていうか……」

 

 本当は全然そんなことないけど、私は笑顔で言い切った。あいつの秘密さえ握れば、教室のグランプリはまた私のもの。あんな転校生に全て奪われるわけにはいかない。

 喫茶店、ちょうどいいタイミングでコーヒーが運ばれてきた。さあ全てを話して、お会計は私が持つって約束なんだから。人にこんなに下手に出ること、普段の私なら無いって、渋谷なら知ってるはずなのに。私のことをお嬢様って、前に褒め称えてくれたじゃないか。

 

 「さあね。少なくとも俺が知ってることといえば、柚寿ちゃんの方は、あんまり君みたいな女の子は好きじゃないってことくらい」

 

 そして彼は、運ばれてきたコーヒーを、砂糖もシロップも入れないで、ぐっと飲み干した。かちゃん、とコップを皿に置く軽快な音で私は我に帰る。怒りが込み上げてくる。渋谷にじゃない、渋谷にこんな事を言わせる、小南にだ。

 

 「じゃ、俺もこれからバイトだから。またね、冬華ちゃん」

 

 待って、と言う私の声と、目に飛び込んでくるのは空になったコップと学ランの裾。渋谷は立ち上がり通学用のリュックを背負って、にこっと私に笑いかけた。前まではもっと、金とか銀とか赤とかメッシュを入れていた髪が、純粋な茶髪に戻っているのに今気付いた。それほど私が焦っていた、余裕がなかったということだ。手を振る渋谷、そして数秒後店のドアを開けて、からんからんと鳴る鈴の音。

 

 「なんなのよ、あいつ」

 

 口に出すと更に間抜けだなあ、と思う。読者モデルの、あの渋谷翔でさえ、小南を庇うのか。ああそうだ、私の教室は、あいつがテッペンなんだから。

 

 

 「懐かしい! あなたも同じこと思ってたのね。小南柚寿、同じグループだったよ」 

 

 すぐに連絡することができたのは、渋谷翔の元彼女だという女、戸羽紅音。本当に桜鳴塾の特進クラスなのだろうか、髪の毛を染めて、へたくそな化粧をして、けらけら笑う戸羽は、ご丁寧に小南たちと撮ったというプリクラまで見せてくれた。戸羽含め、プリクラの魔法のような加工でみんな綺麗な顔をしていたが、やはり小南だけは別格の作り物という感じで、また少し嫌な気持ちになる。戸羽は、私と同じような気持ちを抱えて学校生活を送っていたというのだ。自分のポジションを、小南柚寿に全て奪われたと。

 最初から並べられ、配られたカードの数字が弱かったならもう諦めるしかないだろう。こんな崩れた化粧の下品な女と同じにされたくない。私は、大富豪でいう2、一番いいカードを与えられ、それでずっと学校生活を送ってきたのに、突然ジョーカーが混ぜられたのだ。戸羽とは抱える気持ちの大きさも強さも全然違う。

 

 「いいよ、全部話す」

 「ほんと? ありがとう、助かるわ、戸羽さん」

 「だって、とっておきだもん。あいつの恋人はね」

 

 犯罪者だもの。戸羽はそう言い切って、にやりと笑った。さっきの渋谷と違って、まるで悪役が浮かべる不敵な微笑み。ますます一緒にされたくなくなった、こんなのと同類なんて嫌だ。

 でも、本当に悪役なのは小南のほうじゃないか。私は思わず笑ってしまいそうになるのを堪える。神妙な顔をするのは疲れる、早くこれを学校中のみんなにバラしたい。戸羽の言う通り、とっておきだった。格好、そして最高。犯罪者の恋人、小南柚寿。

 あいつは、桜鳴塾高校男子生徒殺害未遂事件の被害者かつ加害者でもある、青山瑛太と付き合っていた。

日常と地球の額縁 3

 単調な毎日。セーラー服の紐を結ぶ。前までは姿見の前に立ち、一ミリの乱れもないように、何十分もかけて支度をしていたけれど、もうその生活は終わった。朝ご飯を食べ終えて、歯磨きをしながら目を擦る。化粧は、今日は別にしなくてもいいや。

 今でも少し慣れないと思う時がある。女子しかいない学校と教室。上履きではしゃぐ生徒たちの声と、楽しそうな上履きの音が廊下に鳴る。ふあ、とあくびをした。単純作業を繰り返す、だけの日々。刺激が欲しい、なんてことは全くなく、むしろ今までの私の日々を思うと穏やかであるに越したことはない。なんとなく始まってなんとなく終わる、今日もそれ、多分人生ずっとそれ。人間だいたい、みんなそれ。ありふれた生活を、ありふれた人間たちと過ごしたい。私はもう二度と、あんな高いところに行かない、カーストの一番上に立っていたら突然命綱を離されて、真っ逆さまに落ちてしまったんだから。

 だから、私は転校先でもできるだけ無害、空気のような存在になろうとした。市内の女子高、椿が勧めてくれたいわゆるお嬢様学校で、静かに暮らそうと思った。いざクラスに入ってみると、転校生だということで最初は好奇の目を浴びせられたが、数日も経つとわざわざクラス外から見に来たり、休み時間毎に女子のグループが入れ替わって次々と話しかけてきたりすることはなくなった。少し戸惑ったのは、授業の内容がほとんど前の学校で今年の春あたりに終えてしまったものばかりで、退屈、そういえばあの頃は毎日予習とか復習とかを欠かさずしてたから、この辺りは全部わかるなあ、となったこと。転校していちばん最初に行われたテストで私は学年一位を取った。今までの高校では到底取れなかった順位、それもいちばんというのはさすがに気持ちが良くて、あの努力がこんなところで報われた気がして、嬉しかった。

 その辺りから、私はただの転校生ではなく、「小南柚寿」という人間として見られだした。

 ゴミ捨て場で暴行されたことを思い出すと足がすくんで、クラスの誰にも話しかけられなかった。逆に私に話しかけてくる人に対しても、ぎこちない応答しかできなかった。悪気はないのだけれど、どうしても素っ気ない感じがして、昔のまだ愛想が良かった自分を思い出して、嫌だった。そんな私にも一応、プリントを回してくれたり校内を案内してくれたりする子たちが居て、ありがたかったし、もう少し時間を経て私が彼女らに歩み寄ることができれば友人になれるだろう、そんな気がしていた。

 ミスコンに出ないか、と言われたのもこの頃だった。

 学級委員だと聞いた。榎本冬華と名乗ったその生徒は、くるんとカールした髪と、同じくきれいに上がった睫毛が特徴的で、前の学校で一緒だった友達の戸羽紅音をずっと可愛くした感じ。元の素材がいいというよりは、努力して手に入れたきれいな姿って思っていた。それは私も同じなので、クラスでいちばん最初に彼女の名前を覚えたし、きらきらしたグループで楽しそうに会話し、時には他の子のサポート役に回る姿を、かつての自分に重ね合わせていた。

 

 「小南さん、ミスコンに出てみない? 秋に、文化祭があるんだけど」

 

 パンフレットを渡される。ありがちなテーマの下に、ミスコンの概要が並んでいた、そして挟まれている応募用紙。

 榎本さんは先代グランプリだったらしい。一年にして、ミスコンに出られる勇気を素直に凄いと思った。女子しかいない学校、この沢山の女子の中で、いちばん優れている子を決めるというコンテストに、自薦か他薦かはわからないけど、胸を張って出られるなんて、と。私なら絶対にできない。体育館の前の方で、ランウェイ風に整えられたカーペットを歩く子たちに向かって、拍手を送るだけだ、横の子に「柚寿のほうが可愛くない?」って耳打ちされるような、そういうのを望んでいたし、そうなろうとしていた。率先して前に出ていくような真似は今も昔もできないのだ。

 

 「私、できればあんまり目立ちたくないの」

 

 愛想笑いを浮かべて言うが、私は榎本さんと目が合わせられなかった。ミスコン、グランプリ、そんな輝かしい経歴を持つ人との関わりは、以前の私ならまだしも、今はなるべく持ちたくない。ろくなことがないから。自分が目立っているのは知っていた、前まで榎本さんが持っていたのであろう「このクラスでいちばん優れている子」のポジションを、私が崩しかけていることも知っていた。だけど、私がもしここで榎本さんに、私はあの青山瑛太の元彼女よ、表舞台には立てないの、と告白したら、彼女は私に向けた敵意を引っ込めてくれるんだろうか。ミスコンに出ないか、と話しかけてきたのにも、何か裏があるんだろうとは察した。その目がいつも友達と笑っているときの笑顔と全然違うから。この人はたぶん、私をまた墜とそうとしているんだ。

 

 「ええ、もったいない、可愛いのに。目立つって得よ、私はこれでも去年グランプリとったんだけど、そのおかげで読者モデルの男の子と仲良くなったり」

 

 鞄の中の参考書を並べていた自分の手が止まった。

 榎本さんがグランプリなのは、知ってる。榎本さんが私と私の元恋人が起こした騒動について知ってるかもしれないのは、知らない。読者モデル、その言葉でけしかけてきてるのか、それとも何も悪気なく言ってるのか、榎本さんは、「ね、良いでしょ、目立つのも」とでも言いたげに私を見ている。その瞳と、はじめてきちんと目が合った。ミスコングランプリなだけあって整った顔立ちをしているが、心の奥底では何を思っているのか、全然わからない。私はあの事件のことを忘れ、新しい地でやり直そうと思っていたのに。自分の声が震えるのがわかる。もうあんな思いはしたくない、もう放っておいてほしい。

 

 「……私は、そういうのが嫌なの……」

 

 ごめんなさい、と気付けば口に出していた。榎本さんは、私がミスコンに興味がないどころか、嫌悪していることに安心したのか、そうなんだ、と笑った。

 残念、お友達に紹介しようと思ってたのに。そう言う榎本さんの笑顔には、残念どころか、安堵の色が透けて見えた。わかりやすいのか分かりづらいのか微妙な人だな、と思う。たとえばね、あの雑誌のモデルとか……と、いくつか挙げた雑誌の中に、元恋人、青山瑛太がモデルを務めていたものもあった。榎本さん、もしかして私のこと全部知ってるの、って言葉が喉元まで出かかっていた。その楽しそうに話す声が、本心からのものと思えないのがいちばん怖い。全部知っていた上で、私に話しかけていたとしたら、私のやり直し、更生劇場は一ヶ月も経たずに終わってしまうことになる。嫌だ、穏やかに過ごさせてくれ、という未練も虚しく、榎本さんはぱっとした笑顔で、こう言った。

 

 「あの有名モデル渋谷翔の連絡先だって、知ってるもん」

日常と地球の額縁 2

 女学生しかいない学校を選びたいけれど、ゴミ捨て場でかつての友人らに罵声を浴びせられたことを思い出すと、女子も嫌、もうみんな嫌、となる。

 夏休みが始まる前に、私は学校を辞めました。

 小南の成績ならどこでも編入できるだろう、と先生は言った。幼馴染の中川椿は市内でもお嬢様学校と言われる女子校を勧めてきた。私はあの教室の中でいちばんキラキラした女の子でいたかったから、毎日体重を計り、ランニングをして、夜ご飯を抜いて、予習復習を欠かさずやっていたので、じゃあ晴れて卒業したらどうするの、と聞かれたら、何も決めてないです、としか言えなかった。周りには東京の大学に行くと言ってごまかしていた。元恋人も同じ目標を掲げていたから、なんとなく私も一緒。でも今となってはみんな知っている、あの人にお金なんてないことを。

 

 「ヤギリくんの家から多額の慰謝料もらってんだし、あるんじゃないの?」

 

 椿は私の部屋の絨毯に胡座をかき、コーラを飲みながら言っている。私はベッドに腰掛けて、もう枕元に無くなってしまった沢山のぬいぐるみたちのことを思い出す。

 

 「あんな大事件だもんね」

 「柚寿にはほんと、当事者意識っつーか、そういうの無いよな。お前のクラス、しかもお前が付き合ってたやつの話だぞ」

 

 しゅわしゅわした炭酸飲料をすっかり飲み忘れていて、持っていたペットボトルからぽたりと滴が落ちた。

 桜鳴塾大学附属高校男子生徒殺害未遂事件。今年の六月に起きたできごとで、ウィキペディアにも記事がある。私の通っていた高校なのだけれども、あの事件以来学校に行ったのは退学を申し込みに行った時だけなので、ひとごとみたいになるのも仕方ない。

 矢桐晴が、青山瑛太を殺そうとした。それだけだ。矢桐くんがインターネット配信で全世界にその事件全ての確執をバラした。綺麗なルックスを持ち雑誌の読者モデルまでこなし、成績はいつも特進科で学年十位圏内、元テニス部で運動もできれば、人当たりもとても良い。その甘ったるい声を今でも私はよく覚えている、というか忘れさせてくれない。品行方正な美青年、青山くんは家が生活保護を受けるほどの貧困家庭で、本当は高い服を買う金も、彼女や友達とデートする金も持っていなかった。それで、中学生の時から同じクラスだった医者と大学教授のご子息である矢桐くん、この子はまた青山くんとは対照的にあまり目立たない子で成績は真ん中くらい、いつも静かで大人しいと思いきや机の一角をずっと睨みつけていたり、私が話しかけると急に饒舌に喋りだすような、そんな生徒から、日頃から恐喝まがいのことをして金を巻き上げていた。

 その青山瑛太の彼女がこの私、小南柚寿。

 たくさんプレゼントを貰ったし、良いところに連れて行ってもらったし、この金の出所はどこだろう、と思ったときにはもう遅かった。騒動を知ってすぐに別れたけれど、矢桐くんは中学時代から青山瑛太殺害計画を組み、よそ者の私が入り込める余地もなかった。恋人が犯罪者。矢桐くんが普段、他の女子には優しく接する癖に、やたらと私にきつくあたってきた理由も今ならわかる。

 ふたりがどんな処分を下されたのかは、椿が教えてくれた。私だけ、自分から学校を離れたのだ。外は本格的に夏が始まったのか、蝉の鳴く声と、子供のはしゃぐ声が聞こえてくる。

 

 「男の人、今でも怖いから女子高にはするけど……」

 「なんだよそれ、じゃあ俺は」

 「椿は特別でしょ」

 「あはは、特別枠か。これ青山くんに報告しておこうかな」

 「それはやめてよ!」

 

 思わず立ち上がってしまった。炭酸飲料からまた、滴が落ちる。

 椿は青山瑛太の連絡先を知っている、定期的にメールをしているらしいし、私が自殺しようとした時もふたりで結託して止めに来てくれた。友達、というわけではないけど、小南の安全を確保するための仕事仲間……と言ったら変だろうか、そういった関係性であるらしい。別に私は、もう私の足で歩けるのに。

 それはそうと、自分がなぜこうも咄嗟に立ち上がり、椿を止めるというリアクションを取ったのかが自分でもわからない。私はわりと冷静な方だ、さっきの事件も当事者意識がないと言われてしまう始末だ。じゃあなんで、椿を特別だと言ったことを、青山瑛太に知られたくないのか。まるで浮気を隠しているみたいじゃないか。

 

 「……うそだよ、そんなムキになんなって。お前と青山くんはよく似てるよ、たしか、髪の毛が伸びた頃に迎えに……」

 「こなくていいの、もう関係のない人なんだから」

 

 ぱちぱちと頬を叩き、正気に戻れ、自分、と言い聞かせる。肩あたりで跳ねた髪は、一応美容室で整えてもらったものの、昔の綺麗なロングヘアーに戻るまではまだまだ時間がかかるだろう。

 海に行った。ふたりで駅のホームに座って、長い長い話をした。元恋人と、手を繋ぐこともないデート。電車に揺られながら、このままどこかへ逃げてしまおうか、という気持ちになったことを覚えている。

 その時の彼は、もう着飾るような真似はせず、ただ純粋に私を助けようとしていた。髪も服も靴もぼろぼろで、それは私も同じで、電車の窓に反射して映る自分たちがまるでこれから心中でもしに行く人のように見えた。そして、私が駅で降りて、駆け出して、海だ、と言ったとき、連れてきて良かった、と今までの作り物の笑顔なんかじゃない、本当の柔らかくて優しい微笑みを見せてくれたのだ。

 それで惚れ直したとかじゃないけれど、少なくともこんなふうに私に笑いかけてくれる人がいる以上、自分から死ぬなんてことはやめようと思った。

 そして、その後椿と連絡が繋がっていて、まあまあの近況報告が聞けることが少し嬉しかった。退院した、転校した、転校先でも名が知れていて嫌だ、という話を、椿を通して聞いた。私はそれを聞いて同情したり笑ったりしていたけれど、だんだん、あの人もちゃんと生きてるんだ、と思うようになった。

 

 「迎えに来るとか、来ないとか言ってたけど、どうでもいいの、生きてさえいればね」

 

 へー、そうなんだ、と椿は適当に返した。その三白眼がどこか楽しそうに私を見ていることに、またも今更気づいた。

 

 「前までの柚寿なら、他人が生きようが死のうがどうでもいい、って言いそうなのに」

 

 人って成長するもんなんだな、青山くんのおかげか。椿はコーラを飲み終えて、なぜここだけ行儀がいいのだろうか、ゴミは持ち帰るらしく、黒い大きなリュックサックにペットボトルを入れて、立ち上がった。

 

 「邪魔者はそろそろ帰るわ。これから、彼女と会う予定あるし」

 

 変わらずにこにこしたままの椿が、私に手を振っている。私もお幸せに、とか適当なことを言って手を振る、ドアが閉まる。数秒、お母さんが椿と話している声が下から聞こえてくる。

 

 「はー、ほんとあの人の名前出されると、調子狂う……」

 

 私は短くなった髪をぐしゃ、と握りしめて、ベッドに倒れ込んだ。

日常と地球の額縁 1

   小南柚寿が憎い。あいつに私は、全てを奪われた。

 夏休みが明けて登校したら、いつも通りの風景が広がっていた。地方政令都市の、どこにでもある女子高校。開いた窓、夏服のセーラー服。お土産を交換しあうクラスメイトたち。二年三組。私が扉を開く、その瞬間に空気が変わることを知っている、それがなによりも気持ちがいい。

 

 「みんな、おはよう!」

 

 笑顔を浮かべて、クラスでもいちばん、キラキラした子たちが集まるグループに挨拶をする。冬華、また可愛くなったね、とそのグループの中の一人に言われ、そんなことないよ、と謙遜する。そんなことないはずがない、私はこの夏休み、日焼けもしないように、体重も管理し、しっかりと美容に気を遣いながら、過ごしていたのだから。うちの、市内の女子高といえば名前が上がるのはまずここ。レベルが高いと評判で、他校の男子がたくさん文化祭に来るし、うちの高校の女子紹介してよ、と相談してくる人も多い。現に私だって、あの有名読者モデル渋谷翔の連絡先を持っている。

 可愛くいなきゃいけない。

 呪いみたい、と思う。この高校の名を背負うからには可愛くなけりゃ。逆にクラスの隅にいる、垢抜けない子たちは、じゃあなんでここにいるの? と問いたいくらいに。美容の専門学校でもないのに、私たちは日々お互いを出し抜かないように、女同士、なにか、見えないものと戦っている。それが容姿だったり成績だったり色々とあるけれど、なんだか恵まれたのかな、私は去年行われたミスコンで一年生にしてグランプリを受賞し、成績もクラスでいちばん。榎本冬華は、完璧だった。

 彼氏は、いない。作らないのだ。そのほうが、男の子にも女の子にも好かれるから。私はニコニコして、グループの中のちょっと間抜けな顔をした女の子の夏休みの思い出話を聞く、そして頷く、なんと初体験を終えたんだとか。私は処女だ、これもステータス。絶対に誰にも譲ってやんない。あんたみたいな、馬鹿とは違う、私は誰にも触れられない聖域でいたい。

 冬華は? なにかあったの? と、他の女の子が聞いてくる。そうそう、私も話すことを持ってきたんだわ。とっておきの、みんなをあっと言わせるような。

 

 「あのね、私……」

 

 その時、閉まっていた扉が開いた。差し込んだ光が眩しくて、教室の誰もが、そっちを向かざるを得なかった。そんな気がした。

 入ってきたのは担任。若い男性教師だ。担当は数学で、顔も整っているから、彼をアイドル視してきゃあきゃあ言っている女子も少なくはない。

 しかし、それを上回る、まるで作り物みたいな、「きれい」を引き連れていたから、霞んだ、全員の話す声が止まった。席に着け、という担任の言葉に、いつもは嫌々と各自の机に戻るクラスメイトたちが、この時だけ、本当にこの時だけ、素直に応じて席に座った。「いつもどおり」なはずが、おかしい。まるでこのみんなで一色、例えばピンクだとして、いちばんきれいなピンクはどれだろう、と染まっている中に、ひとつだけ黒色のインクを落とされたような、そんな雰囲気が教室を包み込んでいた。

 

 「転校生だ、今日からこのクラスに入ることになる」

 「……小南柚寿です」

 

 ぱっちり開いた大きな瞳、白い肌。肩の少し下まである綺麗な黒のストレートには、天使の輪が浮かんでいる。ピンクの薄い唇、そしてファッション雑誌のモデルのようなスタイル。「転校生」は、小さな声でそう言って、頭を下げた。

 全員が息を呑んだ。そして、勝てないと確信した。それは、私も。この教室にあるどのピンクよりも鮮やかで、お人形みたいで、そしてどこかアンニュイなオーラを纏った転校生、小南柚寿。いったいどこの学校から、と質問を飛ばすものも居ない、静まりかえった教室。担任はあまり詳しい説明をしなかった。指定された席に向かってゆっくりと歩いていく転校生。その道にだけ光が差し込んでいる気がして、廊下側の前から二番目に座る私も意図せずして目で追ってしまう。その一歩一歩が、私が去年文化祭で歩いたランウェイもどきの体育館、グランプリに選ばれた時よりも、輝かしく見えた。転校生は長い睫毛を伏せ、静かに椅子を引いて座った。その仕草さえしなやかで、上品で、このクラスの誰とも比べ物にならない、まさに別格。黙り込んだままの教室、三十三から一人増えたクラスで、何事もなかったかのような顔をしながら担任は簡単な挨拶と始業式の説明を始める。でも、私たちの興味は完全に転校生に向いていた。担任でさえ、なにか壊れ物を扱うような態度で小南を見るから。

 ハートしかない、その数字の大きさを競っている、私のクラスに、一枚ジョーカーが増えた。

 それだけなのに、どうしてこんなに、私は動揺してしまうのだろう。

 

 

 小南柚寿は、その日から私のポジションを全部きれいに更新していった。

 やけに美人な転校生が来たらしいと学校中で話題になり、夏休み明けのテストではクラスどころか学年で一位を取った。ほとんど誰とも会話をせず、ずっと外の方を眺めているだけなのに、彼女のファン的な人間ができはじめ、孤立しているのかしていないのかわからなかった。基本的にこちらから話しかけて、三つほど言葉が返ってくるのみの人間、まるで生きている感じがしないのだが、ハートの弱いほうのカード、いわばスクールカーストの低い、彼女に対して妬み嫉みなどを抱きさえできない女子たちは、プリントを渡してあげたり、校内を案内してあげたりしていた。そんな女子たちに囲まれていると肌の白さ綺麗さも、顔のつくりも、素晴らしく良いことがさらに際立って、日に日にこのクラスの可愛いくて勉強も運動もなんでもできる子、イコール小南という認識が出来上がっていった。前まではそこ、私だったのに。

 一度だけ会話をしたことがある。小南ほどの美人なら、次のミスコンに出てみたら? と声をかけたのだ。どうだ、先代グランプリ様からの直々の指名だぞ、という気持ちと、すでにもう声がかかっているかもしれない、小南には勝てない、という焦りが入り混じっていた。放課後、参考書をきれいに鞄に仕舞っている、途中の小南に話しかけた。

 

 「私、できればあんまり目立ちたくないの」

 

 転校生は静かに言った。

 あんなになんでも持っておいて、良くそんなことが言えたな、という言葉を飲み込んだ。どう見たって、映るために、目立つために生まれた女の子だ。映画でいえば主人公。私はその立場をおろされモブキャラになった。ああそうだった、今は無気力、無関心系の主人公が流行ってるんだっけ? どうでもいい、それならそいつが無気力ぶってるあいだに、正統派の主人公に私がなってやる。

 

 「ええ、もったいない、可愛いのに。目立つって得よ、私はこれでも去年グランプリとったんだけど、そのおかげで読者モデルの男の子と仲良くなったり……」

 

 読者モデル、という言葉を出した瞬間、小南の手が止まった。参考書を並べる細い指が、ぴたりと、漫画のように。

 そして、いままで一度も目を合わせてくれなかったのに、転校生ははじめてその顔を上げて、大きな瞳でちゃんと私を見つめた。

 

 「私は、そういうのが嫌なの。ごめんなさい」